運動と遊びとパルクール
○運動とは
幼児の発達過程において、その獲得順序やその基本的運動(動作)の形態に大きな差異はあまり見られません(現在で、過去25年は変化は見られていないという研究もあります)0歳~5歳までに獲得される基本運動(動作)を、私たちはNatural Methods(ナチュラルメソッド)と 呼び、その運動(動作)とその組み合わせによるものが生活やスポーツなどで表現される運動として成り立つと考えています。つまり、そのナチュラルメソッドを未獲得、あるいは飛ばした形で獲得することで、運動の幅の減少や適応力の低下、ひいては予備力の低下につながると考えています。 0歳~5歳、またそれ以上の年齢であっても、適切な手順や指導によりナチュラルメソッドを獲得・再獲得することで予備力の向上ができ、ひいては、ケガの予防、遊びやスポーツの幅の拡大が見込まれます。
○遊びとは
遊びの3要素というものがあります。
「自発性」
「非現実性」
「快経験」
です。
自発性とは、内発的動機による遊びのことを指します。遊びほど自己の中で完結出来るものはなく、「誰かに監督される訳ではなく、やらされている感覚がないもの」になります。また「自己に没頭できる」作業です。遊びとは、自発的な好奇心より、その時間没頭できるものなのです。非現実性とは、これは、必ずしも何か一貫した意図を持っておらず、その実現を図るという実利行動ではない事を指します。冒険ごっこなどがそれにあたりますね。現実的な何かを得る事が目的なのではなく、楽しむことが目的になります。つまり遊びとは、楽しむための考えや人間観が具体化される場であるという考えが、遊びに人間本来の在り方を求める考え方の根拠になっているのです。快経験とは、…の前に、遊びとはまず、何よりも楽しさを求める行為であるということを確認たいと思います。すなわち、それは快の追求ではないでしょうか。
しかし、人生とは楽しい事ばかりではなく、辛い苦しい事もあります。そしてそれを解消しようと、また快の追求に循環していきます。極端な話に例えると、生と死にいたる話でもあります。少し難しい言い方ではありますが、これは内的現実(自分の想い)と外的現実(社会などの環境)の間に少し余裕を持った過渡的空間(遊びになるもの)を想定し、そこで学ぶ問題解決の仕方を「遊び」とする考え方です。いずれにしても、人は快の追求に尽きず、その追求こそが発達初期からずっと行われ、発達を促進していくものにもなっていきます。
○遊びの素
遊びの素とは、非常に簡単に表現するとしたら、
「緊張(不安)と安心の落差」
になります。
例えば、「いないいないばぁ」というモノは分かりますか?子どもに対して顔を隠した状態から、再度顔が現れるという遊びです。これは、顔が見えないという緊張(不安)から、顔が見えるという安心に一転するという落差が、子どもにすると楽しいのものであります。面白さと、恐さは紙一重であるということでしょうね。お化け屋敷やジェットコースター、洞窟や高所での冒険ごっこなどもそれにあたります。きっと身に覚えがあるはずです。その緊張と落差の程度が大きくなり、自分の許容範囲を超えた時に、人は
泣いたり、助けを求めたりします。それはきっと、子どもでも大人でも同じ感覚でしょう。それゆえに、「緊張(不安)と安心の落差」は遊びのモトと言えるのでしょう。
○パルクールについて
パルクール(仏: Parkour、略:PK)とはフランス発祥の運動方法で、走る・跳ぶ・登るなどの移動動作で体を鍛える方法。周囲の環境を利用した身体動作でどんな地形でも自由に動ける肉体と困難を乗り越えられる強い精神の獲得を目指す。フリーランニング、l'art du deplacement(原語)という別名があるが、パルクールと同じ概念を指す。 パルクールの核を成す精神は'Methode Naturelle'に由来する。
パルクールは、前述する運動・遊びの本質的な部分を含む運動方法であると言えます。現代の形としては、派手なパフォーマンスとして認識されていますが、適切な指導(指導者による指導やAMPなど)のもとに行う事で、人の発達を促進する効果があると私たちは考えています。
○それぞれの関係性
では、実際にどのようにして、運動・遊びをパルクールと関連付けていくのか、というお話です。
パルクールが、前述した運動・遊びの本質的な部分を有した運動方法であるということをまず説明する必要がありますね。本来、人がまだ動物を狩りながら生きる時代では「移動」は歩く、走るなどが当たり前でした。つまり、パルクールのような運動が日常的に行われており、それは「必要な手段」であったのです。それから大きく時間が経
過し、現代に関しては動物を狩る必要がなくそればかりか、車や電車などの移動手段が発達しています。それはつまり、歩く・走るなどの手段は「必要性が低いもの」に成り下がったと言えましょう。 しかしながら、移動というものの必要性は低くなりましたが、絶対的に「無くなるということはない」のです。そこに「手段と目的の取り違え」という差異が生まれているのでしょう。本来パルクールは「手段」であり、生活の中においての必要不可欠な存在でした。なぜならば、ケガをすれば、狩りや農耕を行えないどころか、逆に捕食される対象になってしまうからです。現代では捕食されるという危機感はさほど(?)感じられないでしょう。それゆえに、それほどの必要性も求められなりました。
その結果、現代の社会において人の「運動能力低下や生活習慣病、もっと細かく言えば、インターネットやゲームの発達、遊び場の減少、遊び相手の減少、事故や犯罪の増加」など、社会的な問題はもはや言わずもがなという状態になりました。その問題に対して、「目的的に手段を取り込む」という過程をプログラムすることで、先に説明したNatural Methods(基礎的運動)を獲得・再獲得する事が出来るのという訳です。パルクールは、基礎運動・遊び、遊び場、遊び相手、社会を含む環境という観点から見ても、遊ぶ事(=生きる事)の本質を持った運動方法であると、言えるでしょう。
結論としては、
運動・遊び・パルクールを関連させていくことで、運動・遊びのさらなる質的向上・運動レベル(水準)の向上・運動発達の促進・様々な環境に対しての適応力と予備力の向上ができ、現代社会における社会的な問題点に対しての超具体的な解決策に成り得るのではないかと考えています。